記号を理解するということ

カテゴリ:漫画

asahi.comより。

マンガの表現から差別問題を考えようという講演会「マンガとじんけん」が、大阪市中央区役所で開かれ、講師を務めた京都精華大学マンガ学部准教授の吉村和真さん(37)は「マンガに潜む『偏見』を知ることで差別について考えるきっかけになる」と語った。

同区人権啓発推進協議会の主催。吉村さんは「マンガは多くの固定化されたイメージにあふれている」と、石ノ森章太郎さんの作品「サイボーグ009」を例に挙げ、説明した。背の低い料理人の中国人や寡黙で大柄なアメリカ先住民に対し、西洋人はスマートに描かれていて、人種に対するイメージが特徴的に表現されているという。

また、「めがねをかけている人」は「賢い」、「標準的体形で標準語を話す人」が「ヒーロー」など、作品を読まなくても役回りがわかるほど、気づかないうちにイメージが刷り込まれているという。

吉村さんはマンガの性質上、誇張や省略はさけられないとした上で、「現実は固定化されたイメージ通りではない。なぜ、マンガのイメージを当たり前に思うのか考えてほしい」と語った。

記事の見出しと最後のコメントが、記事中の吉村和真氏の話とはずれがあるように思ったので、カットして引用してみましたが、だいぶ印象が変わりますね。

ちなみにカットしたのは、見出しの『マンガ表現の「偏見」知って 中央区で講演』と、文末のコメント『大阪市港区の河野和美さん(43)は「マンガから偏見が刷り込まれるとは驚きました。帰宅したら娘にどう感じるか聞いてみたい」と話した。』です。カットすると印象は変わりますが、文末のコメントから想像するに、実際に偏見の話は出たんでしょうね。

この話は、オタクでない一般の人にとっては、かなり深い問題提起だと思います。

オタクは、作品を、たんに面白いとか面白くないとかだけでなく、漫画界全体や、他の表現やメディアとの関係においてどのように位置付けするかなんてことを普通に考えてしまうので、主観と客観の切り分けが、容易に出来る人が多い(<希望的観測)。そういうものの見方がオタクの文化で、例えばそれは「パロディ」として一つのエンターテイメントを結実させたりしている。

マンガに描かれる記号を考えることは、記号をちゃんと作者の意図どおりに理解してしまう自分は何者なのかと考えることになるわけで、それは、自己を見つめ、客観性を獲得して、自己肯定と同時に自己批判することにもつながる。

ともかくこれは、偏見があるから良くないよ、という話ではないですね。

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